その話を「聴いて」いるか
私はコーチ仲間とある本の話をしていた。
その本は、絵本で文字は少ないがその言葉ひとつひとつにはとても重みがあった。友人でもあるコーチが声に出して読んでくれたその絵本について、それぞれが感じた事や心に残った言葉について話していた時の事。
そのタイトルにもあった言葉とは全く違う言葉が自分の頭の中にずっと残っていた。そして、自分の中に残っていた言葉こそがタイトルだ、と完全に間違えて認識していたのだ。因みに、私の頭に残っていたその言葉は本の中にも出てこない。
話を「聞く」と「聴く」
私たちは幼い頃から「先生の話を聞きなさい」「私の話を聞いて」と、誰もが話を聞く経験を何百、何千、何万としてきた。しかし、本当にその話を「聴いて」いただろうか?
「聞く:音、声、言葉などを耳に感じとる。耳にする」「聴く:注意して耳にとめる。耳を傾ける。「名曲を—・く」「有権者の声を—・く」(出典:Weblio辞書より)とあるように、「聞く」が自然に音が耳に入る感じで、「聴く」は注意してその内容・中身を聴くという様な違いがある。
しかし、得てしてこの「聴く」は出来ている様で、実際には本当の意味での「聴く」になっていない。上記の私の様に多くの場合には、自分が「聞きたい内容についてのみ」聞く、または「自分が聞きたい様に」聞いているのだ。
具体的には、例えば話者の話の10ある内容の内、自分が理解できたか自分が関心のある事についてのみ聞く、または話者が話したことを自分なりの解釈で受け取って、聞いたつもりになっている。その解釈とは、自分が知らず知らずのうちに持ってしまっているバイアスを通して聞いていることでもある。だから、自分でも気づきにくい。
別の話で友人が私とある会社経営者の話をしていた。その話を聞いていた私は最後までその経営者は「男性」だと思い込んで聞いていた。友人は「男性」経営者、と一言も言っていないにもかかわらずだ。
確かに話の全てについて「その人はどんな人ですか」「これはどういう意図ですか?」なんてひとつひとつ聞いていたら、話が進まないどころかいったい今何の話だっけ?みたいなことになる。
そうではなく、一心にその人の話を「聴く」。
自分の意見や疑問を一旦脇において、その人の話を丹念に「聴く」。
そうやってみて、いったい何が起こるだろうか。
実は人は話を「聴かれていない」ということが判るのだ。だからこそ、初めて「聴いて」もらって、その人は安堵するのだ。悩み相談をして、解決策なんて訊いてない!って思う事はないだろうか。
そんな時は、「うん、うん」とただ、「聴いてほしい」のだ。
あなたの大切なその人の話、聴いてみませんか?



