あなたの意見は?

 「あなたの意見は?」
 大人になるまで、いや、成人しても社会人になってからでも、そう聞かれたことはどのくらいあるだろうか?
 私の人生を振り返ってみても、幼い頃から「この答えは?」という様な質問であっても、前提として質問者の要求する、想定する「正解」を答えなければならない。少し前に話題となっていた「忖度する」というのは、そもそも幼い頃から回答者に要求されていた能力の一つなのではないか?とさえ思ってしまう。子供の頃から大人の顔色を覗い、「要求された」その「正しい」答えを答える事で、私自身が大人の要求に応えてきたとも言える。

 ある時驚いた。
 英語のテキストだ。それは面白い事に日本の縄文時代からの歴史を英語で外国人が記載し、翻訳や解説を日本人が書いているテキスト。最初に、その時代を英語で説明し最後に質問がある。その前提として、これらの歴史は日本人の私たちが一度は学生時代に学習したことがある内容なので、英単語のすべてが判らなくとも、何となく書いてあることが想像できるというテキストだ。

 だが、質問にありがちないくつかの選択肢が無い。例えば、「縄文時代に狩猟をするために人々が使った道具は何ですか?」の様な問いなら、①鉄砲 ②爆弾 ③矢じり みたいな選択肢が無いのだ。
 戸惑った。一度は学習したことがある内容なので何となく(矢じりかな?)とは思うものの、英語で(矢じりって何っていうのかな?)ということよりも、用意された選択肢が無い、という所に私自身が動揺していたのだ。

 これも以前、テレビで見た光景。とある海外の小学校の授業風景。先生が問いを投げかけそれに対し生徒が各々「私は○○だと思います。なぜなら、△△だからです!」というように、自ら考えた意見を表明していたのだ。確かに、主語が絶対に必要な語圏とか自己主張は当たり前とされる文化の違いはあるかもしれない。だが、そもそも日本では「あなたは」どう思う?という問われ方をするだろうか?と、私はその番組を見て思ったのだ。
 思えば、私自身が「あなたはどう思う?」とそれほど問われたことがない。また、問いや課題について、その質問者の問いや課題の意図を理解した上で、その質問者に「忖度する」ことなく自身の頭で考え、「自分の意見」をどれほど表明してきただろうか?と思った。ほとんど無いかもしれない。

 と、いうことはそもそも自分自身でその問いや課題に対して、自分自身の頭で考えそれを表明(たとえ他人に表示しなくとも)したこともないのではないか?
 そんなことを考えた英語のテキストでした。

 まず、自分自身に対して「あなたの意見は?」

 

2021/10/2