ハッキリ、と言える強さ

 車を運転しながら、ラジオを聞いていた。
 その番組は視聴者(対象は中学生以下)から、質問を受け付け、それを専門家が番組内で直接回答するというものだ。何気なくその番組を聞いていた時、ある小学2年生が科学の質問をした。
 遥か昔に、私も授業で習ったが、ほとんど原理を理解していない「重力」についての質問だったので、その解説に聞き入っていた。

 よくある様に、専門家は「どうしてそれを疑問に思ったのかな?」と子供に訊くような話し方で、疑問を持った背景を確認した後は、私にも若干難しいその原理を、専門家は解説しだした。運転しながら、私も頭の中で理解しようとしていた。
 その時、「違う!」とその子は、突然、専門家の解説を遮った。
 生放送なので、アナウンサーはとっさの事で対応出来なかったのか、専門家が「あぁ~、先生が○○君の質問を間違えたんだね。どこが違うのかな?」と若干焦りながらも、その子が本当に訊きたかった質問の意図を探ろうとしていた。その子は、ハッキリと自分が聞きたい事はこういう事だ、と再度質問をした。専門家はそれを受けて解説を再開し、最後まで続けた。
 
 この小学生の様に、いつから私たちは自分の考えや想いが、相手に正確に伝わらなかった時に、「そうではない」とハッキリと言わなくなったのか。他の人が自分を見ているから?相手に恥をかかせるから?この場が居心地悪くなるから?空気を勝手に読んで、その場では口をつぐんでモヤモヤを抱えている。
 確かに「伝え方」に工夫は必要だ。背景等の順を追って話す、自分が伝えたい事の要点を絞る、的確な言葉・表現方法で伝える等、相手に理解をしてもらう為に、自分の思い込みを出来るだけ排除して話す事は必要だ。
 しかし、それでも自分の考え等が、相手に上手く伝わらなかった場合に、うやむやにしたり、言葉を濁したりして、正確に伝わっていないまま議論したり、回答を得ても、本当に相互の理解は深まるだろうか。
 
 自分と相手は、もちろん違う人間だ。考え方も湧きあがる感情も同じではない。だからこそ、その違いを対話によって、自分自身の理解を深める様に、相手の事も理解し、相互に受容する事で、自分の知らなかった、見えなかった世界も広がっていく。相互に受容しあった人々が創造する未来は、どんな世界が広がっていくだろうか。
 自分の考えや想いは自分自身だ、と私は思う。それを蔑ろにするのは自分を蔑ろにする事と同じではないか。 
自分の言いたい事は「そうではない」と言える強さが自分自身にもあるだろうか、と考える時間になった。

 あなたが、自分を大切にするためにしている事はどんな事ですか? 
 

2024/4/16