指示する人、される人の分断
「もう!子供じゃないんだから、あなたもちゃんと手伝ってよ!」
お母さんと思われる人が、その方の子供と並んで歩きながら、ヒステリックな状態で子供に言葉を投げつけていた。怒鳴られている子供は、押し黙って何も言わないまま、母親の横をうつ向いて歩いている。私は驚いて振返ったが、母親と自分の事を思い出していた。
「いい加減にしてよ!やっておいてといったでしょ!!」
怒り狂っていた私は、自分の言うとおりに動かない母親に、言葉の暴力を浴びせていた。母親は押し黙ったまま、何も言わなかった。
ある時は、私の言動を先回りして、家事をしておいてくれたにも関わらず、「なんで、勝手にやるの!!」とやってくれたことに対する感謝もせず、あくまでも私の指示に従わない事にイライラしていた。母親は、やってもやらなくても怒鳴りつける娘に、結局どうしたらいいのか途方に暮れていた事だろう。
私が一方的に不明瞭な指示だけを出し、対話をしない当時の2人の関係は最悪だった。良好な関係性を構築するための日々の何気ない会話も無く、母親が日々何を考え、何を大切にしたいと思っているかさえ、私は知ろうともしなかった。この家を管理し、コントロールする責任を私は勝手に一人で背負ってみたものの、家庭内に発生する事のコントロールが上手く出来ず、仕事の鬱憤も織り交ぜて、ただただ母親に怒りをぶつけていたと思う。
指示者は、その物事・その場を自分が望む通りの方法でやれば、上手くいくと思っている。その為、相手の一挙手一等足について全て指示をし、行動も思考もコントロールしようとする。自分が指示した方法を少しでも違えると、やり方が違う!スピードが違う!何故動かないのか!と間断なくヒステリックな言葉の暴力を浴びせ掛ける。
それでどうなるか。
結局、指示される人は、怒りをぶつけられる恐怖や意見を言っても何も変わらないという諦めを抱えたまま、指示された動きを取らねばならない。よくわからないとは言えず、何故そうするのかと質問する事も出来ないから、指示される人は指示者の「想定している正解」が判らず、指示者の「意図しない過ち」を繰り返す。更に、言葉の暴力を浴びるという悪循環が繰り返される。
指示者は、チーム・組織等を守り、運営し、期限までに結果を出さねばならない、という社会的な責任を負っている場合もあるだろう。しかし、常に恐怖でものが言えない状態や、意見を言ったとしても誰も受取らない状態は、指示者の言動や行動が反映されている。それが故に、メンバーや家族は自ら行動を起こさず(起こせず)、常に指示を待つ状態になり、考える事を止め、指示された事を指示の通りにやる様になる。
絶対的な「正解」があり、それを指示者が知っている場合には、それが早く結果を出す方法として良いのかもしれない。しかし、指示者さえも何が正解か判らない時に、どうすればチーム・組織等を率いる事が出来るだろうか。
チーム・組織等のメンバー一人ひとりに、その能力を認め、意見を求め、時に不安や注意喚起の意見にも耳を傾け、みんなの意見を集約して、同意を得る。そうやって、メンバーの総力を挙げて目の前の課題や目指すゴールへの道を探るのはどうだろう。
最初は自分の意見を問われた事もなく、反対意見や不安を飲み込んでいた人にとって、「自分の意見を言う」事は非常にハードルの高い事だと思う。しかし、その中には指示者が思ってもみない視点を得たり、指示者の指示よりも明らかに効率的な方法を考え出す人もいると思う。私はリーダーである指示者の役割は、常に指示をする事ではなく、メンバーにはチーム・組織等の課題を自分事として考える様に意識を持たせ、能力を引き出し、それをさらに引き上げる事なのではないか、と思っている。その為にまず、各メンバーと相互に強い信頼関係性を作り、その関係性を継続し続け、どんな事も対話し続ける事が出来る場つくりが非常に大事になると考える。不明瞭で先の見えない時代にあって、社会的責任はリーダーたった一人で背負わなくていい、いやみんなで一緒に背負っていけばいい、そんなチームのリーダーに私も成りたいと思っている。
あの母親もきっと毎日、仕事、家事、育児と色々な事を1人で背負って、背負わされてイライラし、疲弊していたのかもしれない。その疲れが怒りとして子供に向いてしまったのかもしれない。そのイライラや疲れを一緒に背負ってくれる人がひとりでもいたら、子供との関係性も変わるのかもしれないと祈るような気持ちになった。
あなたが描く理想的なチームの姿は、どの様なものですか?

