帽子をとる
被っていた帽子をとる。
セッションが終わり、「コーチ」としての自分を終える。素の自分、自分自身に戻る時間。「コーチ」としての帽子をとる、この事に意識が無かった事に気が付いた。
セッションを始める前、30分位前から席について、それこそ「コーチの帽子」を被って、前回のクライアントとの対話の中で話された事や、私の気が付いた事等のメモを見ながら、どんな話だったのか、その時の表情・声色・話すスピード等を頭の中で再現してみる。その一方で、前回のセッションの中で、クライアント自身が決めた「こんなことに取組んでみたい!」と宣言された事を、今日は一番初めに聞いてみようかな?、前回は元気がなかったから、まずは顔の表情や話し方を観察してみようかな?など、今日の進め方をイメージトレーニングしている。直前には、深呼吸をして自分の頭の中、精神状態を整えてセッションに臨む。
しかし、セッション後には、この「コーチの帽子」をとって自分をセッション前の状態や、自分自身に戻る様な事を意識せず、(クライアントはどうして、あんな表情をしたのだろう?)や、(今日は上手く話が聴けたような気がする!)などの、セッションの内容や自分自身の感情の揺れ等にいつまでも振り回されている様な気がした。
どんな人も、いくつもの「帽子」(役割や立場等)を持っている。ある人は職場の上司・部下、子供の親やパートナー、地域活動や趣味のグループのリーダーやメンバー、幼馴染、兄弟姉妹、両親に対しては子供等。それぞれの「帽子」をかぶって、その「帽子」に適した言葉を使い、話し方や表情をする。多くの場合、それは意識せずにとったり、被ったりしているのだろう。あるいは、その人が立っている環境がその言葉や顔をさせているのかもしれない。
私は、セッション後も「コーチの帽子」を取らずに被り続けていた事で、自分が決めているコーチとしての在り方、行動や感情で疲れていた。セッションの良し悪しは、あくまでも「そのセッション内」でクライアントとコーチが創造したものであって、私の受け取り方次第で変な感情を自分の中に生じさせている事もある。それに自分自身が振り回されていた。
被っていた帽子をとる事で一旦、その時の自分から自分が離れてみる。上司としての自分、親として子供としての自分を一旦脇においてみる。実際には帽子を被っている自分も、とった自分も完全には切り離せないだろう。しかし、被っていた「帽子をとってみる」と意識してみると、脇に置きやすいような気がした。それは、それ。
一旦、離れてみたからこそ、頭の中や気持ちを静められて、改めて全くの第三者の様に相手を観察してみたり、自分自身の思考を整理したり、「私」は本当はどうしたかったのだろうか?と落ち着いて向き合えるような気がした。
色々な帽子がある様に、私達は色々な役割や立場を求められる。しかし、「自分で帽子を被る」と言う事は、「自分で帽子とる」という事も選択できるはずだ。その選択を意識して、常に自分自身をケアする事を忘れず、日々過ごしていきたい、との想いを強くした気づきでした。
あなたが、意識して止めた事はなんですか?

