夢見たアートディレクターの仕事の裏で抱えた、
葛藤とストレス
先が見えぬ恐怖を、覚悟して手放した後に、
自分らしく居られる「コーチ」という仕事に出会う

ICF(国際コーチング連盟)認定資格マスター・サーティファイド・コーチ(MCC) 、メンターコーチ、
コーチングインストラクター、
Realign Project創設者
Rei Perovic(ペロビッチ レイ)様
コーチングインストラクター、
Realign Project創設者
Rei Perovic(ペロビッチ レイ)様
ご経歴
東京都出身。15歳の時にアメリカのマサチューセッツ州の芸術高校に1年間の交換留学を経験した事が大きな契機となり、コミュニケーションを専攻するためにボストンに本拠地をおくエマーソン大学に進学。卒業後、ニューヨークの大手広告会社でアートディレクターとして採用され、17年間勤務。その後、このままのキャリアで良いのかと悩んだ末に覚悟を決めて退職し、様々な挑戦を経て、リーダーシップコーチにたどり着く。これまでに1500人以上のアメリカ国内外のクライアントをサポート。現在はICFのマスター認定コーチ(MCC)、メンターコーチ、コーチングインストラクター、そしてRealignProjectの創設者として活動中。ニューヨーク在住。
- Q.1.今日に至るまでの経緯をお伺いします。A.Rei Perovic様(以下:レイさん):
【学生時代】
幼少期から日本の学校生活を楽しんではいましたが、同時に閉塞感を感じることもありました。特に、映画やポップカルチャーで見るアメリカの自立した強い女性たちに憧れを抱き、その文化に興味を持つようになりました。そんな中、15歳の時に1年間姉妹校への交換留学でアメリカの芸術高校に行く機会がありました。この学校は、アメリカ人の学生も寮生活を送るほぼ全寮制の学校で、名門の音大や芸術大学に進学する学生たちが集まるプレップスクールのような環境でした。この高校は少し特殊で生徒達は音楽家、画家、作家など、誰もが既に確固たるアイデンティティを持っていました。この経験は、私にとって大きな転機となり、その後の人生に大きな影響を与えました。この一年はすべてが新鮮で水を得た魚のようにのびのびできて、もっとここに住みたいと強く感じました。
高校卒業後、ボストンのエマーソン大学でコミュニケーションを専攻し、広告を学びました。父が東京の広告会社で働いていた影響で、クリエイティブな環境は私にとって身近でした。小さい頃から、ハーパーズ バザーなどの高価な洋書ファッション雑誌をお小遣いをこつこつ貯めて買い、夜遅くまでお気に入りのアートディレクションのスクラップブックを作る事が楽しみでした。12歳の頃から、マンハッタンに窓付きのオフィスを構えアートディレクターとしてグローバルな作品を手がけるという大きな夢を抱いていました。
【就職活動】
就職活動はニューヨーク在住の友達の家に居候しながら、大きく印刷した作品のポートフォリオを持って多くの広告会社を訪問しました。採用が難しいと断られる度に、その場で知り合いのアートディレクターを紹介してもらい、即電話をして、次々と別の会社を訪問しました。一日に5社以上訪問しても、何度も断られる日ばかりでした。その中で、イギリス人のクリエイティブディレクターに出会い、彼に気に入られ、会った当日に「ちょっと一緒についてきて」と言われ、彼が訪れる編集会社やその他の広告制作の作業に連れ回され、ドキドキしながらもその活気に魅了されていきました。その後、採用の電話がかかってきた時、自分を信じ続けた甲斐があったと思いました。
当時のアメリカ社会では、多様性への認識が今ほど進んでおらず、特に広告業界では白人男性が圧倒的に主導権を握っていました。これは今も、そうかもしれません。アメリカ人でもない有色人種の私のような日本人女性が、競争率の高いアートディレクターとして、日系ではない大手広告会社に採用されたことは、非常に稀なことでした。
【アートディレクター時代】
ジュニアアートディレクターとしてスタートし、最終的にはアソシエイトクリエイティブディレクターとして17年間働きました。何もかもが本当に大変でした。特に、就労ビザの関係で給料が上がらず、残業代もなしで、朝8時から夜中の3時まで働く日々が続く時期もありました。プライベートでどんな不幸があっても、仕事では気持ちを切り替えて自分が担当したプロジェクトでは、常に新しい広告のアイディアを出し続けなければなりませんでした。リストラが頻繁に行われ、いとも簡単に即座に解雇される厳しい現実もありました。
撮影では、リーダーの一人として自分達のアイディアを制作チームと共に実現することができ、世界の素晴らしいホテルに滞在したり、飛行機のファーストクラスで移動したりと非日常的な体験も味わえました。しかし、業界内のモラルの低さ、性別や人種による偏見や差別も本当にたくさん経験し、多くのストレスを抱えていました。
【キャリアの転換期】
アメリカにはサンクコスト効果という「自分が費やした労力や時間が多ければ多いほど、もったいないと思ってその仕事から離れるのは難しい」という表現があります。まさにその通りでした。そのうえ、人気の高い職業だったため、私が辞めたらすぐに代わりがいる現実と、この仕事以外何も知らない自分が、他に何をすればいいのかわからないという恐怖がありました。辞めたい気持ちは常にありましたが、現実には辞めることができずに苦しんでいました。
日本では見られませんが、アメリカでは医師が処方する薬の広告が頻繁に流れています。2016年頃、会社からある製薬会社の薬のアカウントのクリエイティブディレクターに昇進しないかという打診がありました。自分の価値観に反するものを売る事に葛藤を抱えて仕事をしてきましたが、もう、これが限界でした。
当時、私は40歳手前で、過労とストレスが続いたことで指先がピリピリしたり、顔面に麻痺が出るようになっていました。これ以上昇進して責任が増えると、ますます辞めにくくなると思いました。また、独立するためのエネルギーを考えると、今しか辞めるチャンスはないと感じました。そして、2016年の2月に退社すると覚悟を決めました。しかし、辞めた後の未来が見通せず、まるで崖から飛び降りるような恐怖を感じ、2015年のクリスマス休暇中は眠れませんでした。
辞めた当日は、タイムズスクエアのバーで一人、お酒を飲みました。心の中には解放感と不安が入り混じり、複雑な心境だったことを覚えています。
【コーチへの転身】
退職後の1か月間は、デトックスと称して好きなことだけをして休息に時間を費やしました。以前から学んでいたレイキ(日本発祥のヒーリングテクニック)を活かし、ドラッグ中毒でホームレスになってしまった人々を鍼師と共にサポートするボランティア活動に没頭していました。まるで広告業界での「罪深い」仕事から、他者のために尽くす「利他主義」への転換の様でした。ただ、私の強みは自然と人々が心を開いてくれることです。バス停で隣り合わせた知らない人からも人生相談をされるようなことが多々ありました。しかし、レイキは無言で行うことが主で、スピリチュアル系のコミュニティも自分にはしっくりきませんでした。これからどうしていこうかなと思っていた時に、コーチングのプログラムに出会いました。
フルタイムでコーチングのトレーニングに専念し、2017年にICFコーチの認定資格を取得しました。アメリカでコーチングを学んでいる人には人事や人材開発の分野の人が多い中、クリエイティブな職業だった私は、どうやったら自分らしくコーチングができるのかを考えました。そして、「コーチングスキルを使ったブランディング会社」として起業しました。私のクライアントであるコーチたちは、「自分のコーチングをどう表現したらよいのか判らない」、「自分のビジネスをどうブランディングしたらよいか判らない」という悩みを抱えている人が多かったのです。その点をクリアにし、ブランディングを展開していくというビジネスにしました。
会社も軌道に乗ってきた頃に、コロナ禍が訪れました。先がまったく見えない不安な時期にブランディングに投資しようという人はいなくなり、また一度立ち止まってこれからどうするかを考えざるを得ませんでした。2020年からは、自然な流れでコーチングだけに専念することに決めました。その後は順調に進み、現在では一対一のコーチング、企業でのグループコーチング、メンター、そしてコーチングを教えることなど、幅広く活動しています。
コーチングを学んだことで、好奇心を持ってさまざまな角度から物事を捉えられるようになり、コミュニケーションの向上にもつながりました。広告会社では価値観のズレに苦しみましたが、それを乗り越え、この仕事が自分にぴったりだと感じ、私はとても恵まれていると思います。膝をがくがく震わせながら辞める勇気を振り絞ったあの日の自分に、何度でも「ありがとう!」って言いたいくらいです(笑)。
コーチングセッションでは、当時の私が抱えていた葛藤や価値観のズレを感じていらっしゃるクライアントを多く見ています。そのクライアントの多くは、頭だけで考えてすべてを解決しようとする傾向が強いと感じます。
私は何度かサーカスにあるような空中ブランコをやったことがあります。そこで「今だ!」というタイミングと、「エイッ!」と飛び出す勇気の意義を体感として得ました。また、その流れに力を入れず乗ることの重要性も感じました。その気づきから、実際に色々な経験をしてみて「体感として知る」という事も、役に立つのではないかと思います。また、予定等を余裕なくきっちり詰め込みすぎず、日常に「スキマ」を作ることも大切だと考えています。この「スキマ」が、思いがけない「気づき」に繋がるのではないかと思います。
- Q.2.17年間のアートディレクター職を辞めて、コーチとして独立されました。レイさんが経営をされる中で大切にされている事はどんな事でしょうか?A.レイさん:個人事業主として活動する中で大切にしていることがいくつかあります。まず、人とのつながりを大切にしています。外国人の私がニューヨークの広告業界でキャリアをスタートできたのも、全く知らない私を助けてくれた人たちの紹介によって最初のチャンスをいただいたからです。私も、できるだけ人々を結びつけるように心がけています。現在、さまざまなコミュニティでの活動を通じて、多くの人と触れ合い、仕事だけでなく人生そのものが豊かになっていると実感しています。さらに、オンラインの普及により、気軽に世界中の人たちとネットワークを築ける時代になったことに感謝をしています。
また、プロジェクトを通じて社会に良い影響を与えることを大切にしています。コーチングを通じて関わるクライアントや生徒、メンティーが成長し、新たな気づきを得ることで、その影響が周囲にも広がることが理想だと思います。いい子ちゃんぶるわけではないのですが、前の業界での経験から、社会的貢献の要素がない仕事にはやりがいを感じません。
そして、常に新しいことに挑戦し続けたいと考えています。クライアントの成長やコーチの養成を手助けするだけで、自分が変化せずマンネリな状態ではつまらないです。プロジェクトに関わることで、私自身も仲間も学びと成長の機会があり、共通の価値観やビジョンを持って仕事を楽しめるかどうかを重視しています。
- Q.3.コーチとして日々、多くの人と向き合われています。そのレイさんが、人と向き合う時に大切にしていらっしゃる事はなんでしょうか?A.レイさん:今年、私はMCC(ICF: 国際コーチング連盟の最上位資格であるマスター認定コーチ)を取得しました。このプロセスの中で最も重要視された行動指針の一つは「クライアントとパートナーシップを築くこと」です。お互いを人として対等に尊重しながら関係性を築くことが求められます。これは、人間としてもコーチとしても非常に重要な信念であり、常に大切にしています。
私は、人間関係において肩書や立場、人種、性別、セクシュアリティ、またはその他の要素で人の価値を判断し、他人を見下すような態度や行動が苦手です。広告業界で働いていた時、「有名広告会社のアートディレクター」という肩書だけで慇懃無礼なほど過剰に持ち上げられることがとても嫌でした。この経験から、自分自身の価値を肩書きや立場ではなく、人間としての本質に基づいて評価されることの重要性を強く感じました。
今でも強く印象に残っているのは、東京の大手広告会社でインターンをしていた時に出会ったクリエイティブディレクターです。彼は数々の有名な広告キャンペーンを手がけ、そのカリスマ性も際立っていました。まだ大学生だったインターンの私に対しても、丁寧に挨拶をし、きちんと目を見て興味を持って会話してくれました。傲慢な態度の人もいる中で、とても驚きました。そして、こういうかっこいい大人になりたい!と強く感じたことを今でも鮮明に覚えています。
それぞれの人の多様な側面を尊重し、人間同士として向き合うこと。このコーチングのスキルは、まさにこの考えを実践するために役立っています。
- Q.4.今後ご自身がやりたい事はどんなことでしょうか?A.レイさん:ICFのコーチング倫理や行動指針は、コーチングの発祥地である欧米の文化的背景を基準にしています。そのため、文化的背景や価値観、言葉の構造が異なる地域では、ICFの基準をそのまま適用するのは難しかったり不適切な場合があります。欧米の基準が唯一の正解ではなく、地域ごとの特性や文化に合わせたアプローチが、私は必要だと感じています。ICFの倫理や行動指針の核心を保ちながら、特にアジアや日本の文化に適したコーチングスタイルを模索し、それを広めることに貢献したいと考えています。
また、異なる文化背景を持つ人々が共に働く際の課題にも関心があります。外資系企業が日本へ進出する際や、外国人がアメリカで働く際、グローバル企業のチーム内で多様な文化背景を持つメンバーがいる場合に、文化の違いをどう調整して円滑なコラボレーションを実現するかに興味を持っています。
One Viewpoint
レイさんはZoom画面の向こうで、本当に優しい雰囲気を纏っていらっしゃいます。懸命に色々な事と戦っていたアートディレクター時代を経たレイさんが、力を込めて「あの時にコーチングに出会って、本当に私はラッキーだった!」と何度もおっしゃいました。ご自身の経験から得た想いと共に、今度は社会への貢献と社会に良い影響を広げるコーチとして、目の前の私と一人の人間として、このインタビューに向き合っていただけたのかと思うと、胸が熱くなりました。
2024/6/3