純粋で正直な自分の想いを軸に、忠実に生きる

赤木 麻衣子様 

ご経歴

 町工場の多い東大阪市に生まれる。母親との関係性から常に完璧を目指さざるを得ない状態と、自身の自我との折り合いの付け方に悩みを抱える。見学のつもりで尋ねたベンチャー企業の社長に見込まれて入社を決め、多くのものを吸収して成長していく。その後、父親の会社の経営危機も有り、家族の生活を支える目的で起業をするが、多忙を極める中で疲弊していく。その中で司法試験の勉強を開始し、現在の夫と出会った事で法律事務所を経営する事になる。事業再生やM&A等、当時、法律事務所では積極的には扱っていなかった手法を取り込み、ブルーオーシャンを見事に泳ぎ切って、最近早期の引退を決めた。
 資本主義の世界とは距離をおいた、地に足を付けた生活にむけて行動中。

  • Q.1.現在に至るまでの、経緯をお願いします。
    A.赤木麻衣子様(以下:麻衣子さん):
    【幼少期~学生時代まで】
     私は町工場が多い東大阪の子供があまりいない様な所で育ちました。その為、保育園に入った時は子供独特の「わぁ~!!」みたいな感じに驚いてしまい、人見知りで大人びた子供でした。いわゆる大人が望む「いい子」って言うんですかね。成績も良く、望まれるものを無意識に察知して大人の満足の為に、きっちりと返せる(やりたい放題の今とは対極の)品行方正な子供でしたね。(笑) 当時から本を読むのが好きで、文章を書くのも得意でした。読書感想文を書く宿題が有りますよね?(大人受けする文章を書かなあかん)と思って書くと、凄く評価されて先生も大満足、みたいなのがあるでしょ。そういう文章は書けるんですよ。でも、幼少期から我の強さがあったので、それはそれで私自身は気分悪いっていう鬱屈があり、感想文の最後に、「~~、とでも書けば満足ですか?」という文章を付け加えないと気が済まない子供でした。当然先生に呼び出され、
    先生:「これはどういうこと?」私:「書いた通りです」みたいな(笑)。成績もいいし手は掛からないから、大人は怒る事ができないけれど、全く可愛くない子供でした。
     この鬱屈した私の状態は、自分のコンプレックスを娘で解消しようとする母親との関係性から来ていました。母親からは「何から何まで、完璧でなければ許さない!」という異常な過干渉を受けて育ちました。母親にとって私が何か少しでも理想の状態でないと、食事中でもちゃぶ台をひっくり返す程の半狂乱になって泣き喚き、家の中がぐちゃぐちゃになるという日々でした。
     高校生になって、早々に私は学校に行かなくなりました。高校自体は自由な校風でしたが、教科書を読めば短時間で理解できるような内容を、何時間も先生の話を聞かないといけないというのが苦痛で仕方がなかったのです。
     その中で、私にとって大きな出会いが有りました。高校3年時の担任の先生が帰国子女で、先生も日本の公務員生活になじめず、私の居心地の悪さを理解してくれました。食事に誘ったりしてサポートして下さり、その先生にはとても大事にしてもらえました。結局、高校は30%程度の出席率で本来のルールでは卒業できないはずですが、追い出される様にして卒業させてもらえました。当時はまだ不登校についての対応が学校も判らなかったのでしょうね。
     進路を考える時期に、その帰国子女の担任から「日本社会はあなたにとって無理よ。行くなら海外の大学に進んで、海外で暮らす方があなたにとって楽だと思う」とアドバイスをもらった事をきっかけに、高校卒業後に、留学や海外の大学を受験するため為の専門学校に行き勉強を始めました。
     
    【就職から起業まで】
     ある時、友人が見ていたアルバイト情報誌に、自宅の近所にあった伸び盛りで有名だったベンチャー企業の求人を見つけました。その有名なベンチャー企業はどんな会社だろうと知りたくて、面接の予約をしました。最初から見学が目的だったので、およそ入社試験を受けに行く様な出で立ちでもなく、履歴書は名前だけを書いてあとは白紙。軽作業のアルバイト募集かな?と軽い気持ちで面接会場に行きました。 
     筆記試験の時間になり、会場に入ろうとしたところ、「君、君はこっち」と私だけが呼ばれて、その方に着いて行くと、「君は筆記試験を受けんでいい、社長が今から面接をすると言っているから」と言われたんです。よくわからないまま、社長室に入ると私の白紙の履歴書を社長はじっと見たまま、
      社長:「募集要項を見て分っていると思うけど、うちは英語だけでなく第2外国語が話せることが必須なんだけど、英語以外に何が話せるの?」
       私:「留学準備の為に学校に通っている位ですから、第2外国語どころか英語すら相当に怪しいです」
      社長:「え~‼じゃぁ、難関資格とか持ってないの?」
       私:「いや、運転免許くらいです」
       匙を投げた社長:「これだけは!みたいなアピールポイントは無いんか?」
       私:「いやぁ、特に有りません」
      社長:「もう、えぇわ!!」みたいになりました。
     当時は不況の真っただ中。2名の採用枠に60人も応募がある様な状態の企業に、学生で世の中の事を全く知らずに白紙の履歴書を持ってくる私を、社長は(大バカ者か、大化けするかのどっちかや!)と思ったそうなのです。当時、このベンチャー企業は伸び盛りでしたが、資金や人材の供給と事業成長のバランスが上手くいっておらず、社内の雰囲気も悪くなっていた時期で、何か異質な者を入れてみようと考えたらしいのです。
     結局、そのまま入社しました。(笑)入社した時、多国籍の従業員の中で私は英語を話す事も怪しい、社会人経験もないので電話や事務作業に対応出来ない、パソコンの操作もできない。この伸び盛りのベンチャー企業で、私は何も出来ない状態でした。「誰がこんなアホ入れたの!邪魔やから!!」と、全ての部署から押し付け合い、たらい回しにされました。当たり前ですよね。それで、見るに見かねた社長が私のレベルの底上げが必要だと考え、ベルリッツ(英会話学校)や接遇等の個人レッスンを付けてくださったことで、入社2か月後位から徐々に順応するようになっていったのです。実力主義の厳しい会社だったので、メンタルが折れて辞めていく人が多い中で、私は毎日「仕事はありませんか?」と各部署に聞いて回りました。従業員はみな多忙過ぎて、待っているだけでは誰も仕事は振ってくれず、何かを手取り足取り教えてくれる訳でもない。そこでめげずに(今の自分でもできることはないか?)と図々しくも食い下がっていくうちに、だんだんと仕事を振ってもらえるようになっていきました。
     入社後1年半か2年経過した頃、社内では派閥割れが起きたり、翌年春に予定していた店頭公開に向けて粉飾決算を繰り返すこの会社に、愛社精神を失っていた私は、その年の11月頃に退社をしました。その直後、会社は資金ショートを起こし、新年を迎えて直ぐに倒産しました。
     退社後は、勤めていたこの会社で一番営業成績が良かった人をスカウトして、同じ業種で個人事業主として事業を始めました。23歳の時でした。自分で事業を始めた理由は、当時父親の会社の経営が危うく、何かあったら自分が家族を養う必要もあったからでした。
     当初からビジネスモデルが判っていて、顧客も既にいたので開業してすぐに黒字化できました。しかし、2年位経つ頃には忙しすぎて心身共にボロボロになっていました。なんの為に仕事をしているのか分らなくなってしまい、いつ辞めようかという考えと、この仕事を辞めて今の収入に見合う仕事は有るだろうかという考えが、頭の中でグルグル回っている状態が続いていました。
     
    【司法試験のチャレンジから法律事務所経営まで】
     ある時、女性が閉鎖的な会社員生活を辞めて貯金を全部握りしめ、司法試験を受けて弁護士になったという新聞記事を、偶然に読んだのです。その時(確かにこの道やったら、そんなに収入が下がる事もないな)と思い、26歳頃の4月から週2回の司法試験の専門学校に通う事に決めたのです。しかし、いかんせん週のうち半分以上が出張生活という多忙ですから、それと並行して勉強を続けるには無理がありすぎました。それで予備校通学一年目で早々に挫折しました。しかし、どうしても諦めきれず、仕事を辞めて勉強に専念しようと決心しました。私がスカウトし、一緒に事業をやっていた相棒に、「辞めたい」と伝えたところ、相棒は一瞬驚いたものの、「今だったらあなたが事業資金として入れてくれた全額を返す事が出来る。」と言って、私が投入した事業資金を返してくれた上に、事業から抜けることを承諾してくれました。
     その後は、勉強を継続するもののなかなか合格できず、模試でもなかなか結果が出ずにいたある日、司法試験を一発で合格した人(現在の夫)が、目の前を通りかかったのです。(神のお助けや!)と彼を見て思った私は「勉強を教えて欲しい!いつが良いか日にちを決めて?」と、強引な私に引いている彼に食い下がったのです。そうやって勉強を教えてもらう日々がしばらく続き、彼からのアドバイスが功を奏して徐々に成績が上がり始めた矢先、娘を授かり入籍する流れになりました。
     入籍した後も、そのまま司法試験の勉強を続けようと考えていたのですが、弁護士である夫の仕事をそばで見ていた私は、当たり前ですが(相談にはハッピーな人は一人もやってこない。なんか暗い仕事やな。私は弁護士の仕事はしたくないな)と思ってしまったのです。
     丁度その頃、夫が独立して法律事務所を設立することになりました。彼は弁護士としては優秀でしたが、顧客ゼロでの独立で営業はできないし、経営のことがサッパリわからないと言います。そこで彼が苦手なところをサポートする形で、私は夫が設立した法律事務所に入りました。
     
     以前から、企業が事業規模に対して過分な借り入れをしている場合に、債権者からの借入を適正水準まで切り下げる事業再生に興味を持っていました。その当時、事業再生を扱っている法律事務所はほとんどありませんでした。司法試験の勉強をやめて、時間の余裕もあった私は本屋に行き、当時は棚の1段分しかなった事業再生に関する本を全て購入して読んでみる事にしました。そうすると、重要な箇所はどの本にも書かれていることに気がつき、そこだけを読み込むことで内容が理解できたのです。
     ほどなくして、父の紹介で2か月後に倒産しそうな会社から事務所に相談がありました。事務局として夫の横でその話を聞いていた私は、その社長さんに、「今の話だと、事業再生の方法を使ったら倒産せずに済むかもしれません。しかし、私には知識は有りますが、実際にやった経験が無いのです。一か八か一緒に再生をやらせてもらえませんか?」とお願いしてみました。すると、社長さんも「どうせ倒産するのだったら、一か八かやってみようか」と私に任せてくれたのです。その案件がとんとん拍子に上手くいき、現在ではその会社は優良企業になっています。それが、私が初めてやった事業再生でした。

     それがきっかけとなり、事業再生に関連する資料を集める様になり、ライフワークとして事業再生を熱中してやる様になりました。あれから15,16年経過した今でも、倒産の相談が法律事務所に持ち込まれた場合には、一度は必ず事業再生の方法を検討します。私が再生プランの大方を描いて、それが法的・税務的に問題がないかを弁護士はじめ各種専門家に検討してもらうという方法ですね。
     業再生をいくつか経験していくと、会社を立て直すために赤字の部門を切り離す、今でいうM&Aを検討するようになったのです。しかし当時はM&A仲介ができる会社も少なく、仲介費用が非常に高くて扱うのは新聞に載るような大型案件ばかり。今ほど中小企業のM&Aを安価でやるという概念が世間にはまだ有りませんでした。
     そんな折、たまたま新興勢力のM&A仲介会社のアドバイザーと知り合い、彼から知識やスキーム等を学びながら、一緒にM&Aをやる機会に恵まれました。それをきっかけに、法律事務所ならではの会社分割等の法律知識を生かした難易度の高いM&Aをどんどんやって彼も私もスキルアップしていこうと、互いのシナジーを持ち寄りながら、二人で夢中で取り組みました。
     同時期頃に、シュリンクしていく日本経済を見据えて、日本企業だけをターゲットにしていてはダメだと危機感を抱き、弁護士に中国語を習得してもらい、いち早く中国企業向けのリーガルサービスの提供にも取り組んでいました。
     
     事業再生とM&Aと中国企業へのリーガルサービスの提供という、ニッチとニッチとニッチのかけ合わせで、気づけば事務所の経営がすごく安定していきました。私自身もアドバイザーとしてM&Aを扱うだけでなく、M&Aで会社を買収したりもするようになりました。様々な理由で閉鎖に追い込まれるような企業が、私の知識・経験や人脈を生かすことで生き残れて、かつ社会的意義もあるのであれば、買収して立て直して社会にお返ししようという取り組みを続けてきて、ここまできましたね。

     
  • Q.2.麻衣子さんが法律事務所やご自身の会社を経営される中で最も大切にされていた事は何ですか?
    A.麻衣子さん:
     経営する上で、常に考えている事は「絶対にレッドオーシャンに入らず、ブルーオーシャンを見つけて、如何に熾烈な争いを避けながら、無理せず経営を安定させるか」と言う事ことです。
     ただ、「ブルーオーシャンを目指す」といっても、これだけ世界中にビジネスが飽和しているのですから、 単体の事業としては難しい。これを解決するのがニッチとニッチを掛け合わるというやり方なんです。
     しかし、どんなブルーオーシャンでも、後発参入が増えてくるとそのうちにレッドオーシャンになります。それでも、先に始めて、色々なノウハウ等、様々な事を組み合わせて常に半歩先を進むことを心掛けていれば、ブルーオーシャンはまだまだあると思っています。

  • Q.3.麻衣子さんが、人と向き合う時に最も大切にされている事はどんな事でしょうか?
    A.麻衣子さん:
     私は自分の価値観を人に押し付けない様にしたいと思っています。喧嘩する程に価値観が違うのなら、無理やり関係性を続ける必要が無いと思っているし、相手に期待を抱かない様にしようとも思っています。
     それは、相手の価値観を尊重しようという事なのですが、相手に踏み込んで関わり合いを持とうとしない事の度の過ぎているのか、冷たいとかスーパードライ(笑)と言われたりしますね。
     これは家族や娘に対しても同じで、一時期、娘が心のバランスを崩した事が有りました。娘の価値観を尊重するが故の私の態度が、彼女には冷たく突き放す様に映って、淋しかったのかもしれませんね。‘’スーパードライ”と受け取られる程なので、ここはちょっと改善が必要なのかもしれません。

  • Q.4.今後ご自身がやりたい事はどんなことでしょうか?
    A.麻衣子さん:
     そろそろ仕事は引退しようかなと考えています。2年くらい前から少しずつ仕事を減らしていって、現在は仕事とプライベートの割合は2:8位です。仕事に疲れてきたのと、自分の反射速度、決断に至るまでの情報収集能力・集中力が年齢と共に加速度的に落ちてきたのを感じたのを機に、これは潮時だと思いました。
     今、大阪の都心に住んでいるのですが、3,4年後位迄には、田舎で自給自足の様な生活がしたいと思っています。場所も明確には決めていませんが、どこか山あいの場所で自分が食べる位の野菜を作りながら、資本主義社会から距離を置いた人間らしい生活をしたいなと。
     資本主義の中で生き続ける限り、どんなに収入があっても自分の足元が不安定だという感覚が捨てきれずにいます。私にとって、「自由」が最も大切なのですが、自分の食べる物を自分で作って、それを食べ、地域コミュニティの中で小さく生きていく事が、今の私には「究極の自由」の様に映るのです。
     他には旅行がしたいですね。仕事に全力投球しなければ結果が出なかった時期もあり、最近、仕事を減らしてみて、実は私は他の人が普通にするような、例えば電車に乗る様な事が全く出来ないし、知らない事が多すぎる事に気がついたのです。決められた旅行ではなくて、自分ですべて計画する様な旅行をしてみたいですね。

One Viewpoint
 反射速度や決断力が落ちてきた、とおっしゃる麻衣子さんは、このインタビューの趣旨や目的を瞬時に理解された上で、一旦はお断りをされました。それでも食い下がる私に、今回の機会を下さり、様々な話を丁寧に分かりやすくしてくださいました。幼い頃から持ち続ける純真なご自身の考えや想いに忠実でありつつも、相手の状況・想いや必要性等を冷静に見つめ・考えて尊重してくださる姿勢を、強く感じました。ご自身の経験や知識等を惜しげもなく使って、社会に貢献をしようとされる麻衣子さんが、数年後に地域のコミュニティにおいてどんな風に自由に生きておられるのか、ぜひ、会いに行きたいです!

2024/11/28